June 3, 2007

Elevator Life

エレベーターの中に男がひとり。

しかしその光景は少し奇妙だった。
――――男は天井に張り付いていた。


いつからこうしているのか既に忘れてしまった。
ただ分かるのは、この鉄の箱が、
静かに落下運動をしつづけているという事だけである。

慣性の法則に忠実に従って、天井に張り付いているということから
そうなのであろうと推測するだけだったが、
ワイヤーが切れてしまったのだろう…、と男は考える。

その鉄の箱の内部は、灰色の空間だった。
ほの暗い明かりで照らされていた。
天井にくっついて間の抜けた格好をさらしていることで、
照明が身体で隠されているはずなのに、
不思議と明かりは均等にいきとどいている。
階を表示する文字盤は、壊れたストップウォッチのように
只々数字を断続的にくるくるくるくる置き換えるだけだ。
静かに、自分の呼吸の音と、外から機械がうなるような音がするだけである。


最初、男はどうやったらここから抜け出せるのか、
一生懸命に考えていた。
携帯電話を取り出して、外部と連絡が取れないか試みてみたが、
アンテナマークは「1本」立ったかと思ったらすぐに「圏外」を表示し、
その繰り返しだった。
そのうち常に「圏外」になった。

もちろん、男もバカではなかったから、
「非常呼び出しボタン」の存在に気付かないはずはない。
何とかがんばってボタンに手を伸ばすが、
うんともすんとも応答がない。
何度も何度もねばって繰り返すが、同じことの繰り返しであった。

壁をガンガンとがむしゃらにに叩いてもみた。
結果はやはり目に見えていた。

男はこんな状況におかれても、最初こそ慌てもしたが、
だんだん冷静さを取り戻し、先のような行動を行ったが、
どうしようもなく、ただ天井に張り付くことを余儀なくされたのだった。


そうこうして、すっかり脱出をあきらめていた男は、
時間が過ぎ去るのも忘れてしまっていたが、
自分がどうしてこの重力の忠実なしもべと化した鉄の箱の中にいるのか
何の用があってこの中に入っていったのか。
それすらもすっかり忘れ去っていたのだった。

男からすれば最早、
気がつけばエレベーターの中にいた――
その程度のことになってしまっているのである。
あきれた話だが、男は、
この灰色一色の世界に完全にノックアウトされていたといえるだろう。
滅入ってしまっていたのだ。
こうして時間は無為にだらだらと、
しかしそれでいて飛ぶように過ぎ去っていくのである。


――――不意に、男はエレベーターの床に叩きつけられた。
やっと降りることができたというのにこの仕打ちはなんだろうと
うつぶせに落下したため激しく痛む顔面を押さえながら、
男は立ち上がった。
明らかに鉄の落下する箱は速度を落としていた。

エレベーターというものは安全のため設計段階で、
すとーんと急降下するようにはなっていない。
空気がクッションになって落下の衝撃を抑えるようになっている。
それまでそのクッションが作動しなかったということは、
どれだけの高さだったんだ?
などと今考えるべきでないようなことを考えながら
男は状況を見守っていた。

やがて、ついにエレベーターが止まった。
かなりの衝撃を伴ったが、それでも鉄の箱は落下をやめた。
男は扉を開けてみようと思い立ち、扉に近づく。
するとどうだろう、扉が自動的に開いたではないか。
恐る恐る男は扉の外の世界に、
かつて渇望していたはずの外の世界に足を踏み出した。



そこは――――真っ白な世界だった。

たとえるならそこは「無」の世界。
何も目に入らない白の世界。
白、しろ、シロ、しろ、白、……。
自分の身体だけが、浮き上がっているような、
足場がないような、異様な世界が広がっていた。

鉄の箱と自分、それだけしか存在しないように思われる世界に
足を踏み出した瞬間、男は思い出した。
なぜ自分がエレベーターなんぞに入っていたのかを。

男は2人の人間によって箱に入れられたのだった。意識のないままに。
男は忘れていたわけではなかった。知らなかったのだ。
自分がエレベーターに入った理由。存在理由を。
だから、「思い出した」という言い方は間違っている。
――「天啓」。急に頭に浮かんだ。そうとしか言いようがない。

そのことを思い知らされた男は、ついに、叫びだす。
何のために!
俺をどうしたかった!!
お前らは俺のなんだったんだ!
時間を帰せ!!

しかしその声は、白の世界に響くこともなく、すぐに消えた。
男はきびすを返し、エレベーターに再び乗り込むと、
ボタンを乱暴に押しまくった。
上へ上げろぉ!!
叫ぶがうんともすんとも言わない。

男はしゃがみこんだかと思うと、言葉にもならないことを叫びながら、
外に飛び出していった。



そして、白の世界の中に消えていった。




エレベーターだけが取り残されている。
ワイヤーもつながっていない、
外から見ればただの鉄の箱にしか見えない物体。
するすると、扉が閉まった。
ゆっくりと緩慢な動作でエレベーターが上に昇っていった。



――――Fin.

0 Comments:

Post a Comment

<< Home